2010年8月29日日曜日

「持続可能な教育」勉強会に参加しました

教育学部出身でありながら、教員免許をもっておらずかつ「自分が知っているのに人が知らない状態にいらつく」というまるで問題外の性格をしている私ですが、サラリーマンをしつつも教育に興味がないわけではなく、twitterでちらりと見た標記の勉強会に参加してきました。
http://twtvite.com/qnbvlo

スタンスはというと、今日的に現場で感じられている問題にどんなものがあるのか、ということを知りたかったという感じで完全passiveな感じで臨みました。

顔ぶれはというと、学生さんや学校教育に携わっている方や現職教員がほとんどでサラリーマンがあんまいない(2,3人か?)、し若い!
(まあ、若手向けと明記されていたので事前に主催者に年寄りが参加可能か確認しておきましたが)

この回は3回目ということで、今勉強会の目指すゴールとしては文字通り、持続可能な教育とはどういうものかということを考えることのようです。
僕がこのタイトルを見てまずはじめに思ったのは
「いつから教育は持続可能でなくなったのか?」
ということ。
でも、社会の価値観や仕組みが変わって、すべてのものが変化することを強要されている中、学校教育も例外ではなかったと。いうことだと整理しました。

会の進行は
全員の自己紹介(20人くらい)
→主催者(@showgo)による問題提起
→グループワーク(ディスカッション)
→その内容を全員で共有&議論
→wrap-up
といった感じ。
で、議論のテーマは
「義務教育は必要か?」
別に制約の大きい学校という組織でなくともよい(というかむしろある程度裁量の大きい組織の方が効率的な学習を推進できる可能性があるのでは?)ということ。そして学びの場でも学校として認められるのはどうやらofficialにはハードルが高いようなのですが、それを下げてもよいのでは?ということでした。

なるほどねー。考えもしなかったな。
ちょっと考えましたが
・基本的なところを保証してくれる義務教育という精度が識字率の向上などに寄与
していることは自明だから必要
・現在の課題で一斉授業の形式を取ることにより詰め込み型などの批判を浴びると思うが
集団を集めてやる学校形式の一斉授業は、上述の目的を効率的に果たすという
側面において否定はできない

というごくごく単純な発想(素人なんでまあいいかなと)。
議論の展開で、面白いなと思ったものは
1.義務教育の目的は知識習得以外に集団の中で生活する訓練などの側面もある。
2.落ちこぼれる、不登校になるといった問題をどうするのか?
3.義務教育の目指すところ(中央教育審議会の答申)を見ると、スーパーマン量産を
目的としている。だがそんな人間はほとんどいないからそもそも無理な目標設定なのでは?そういう人は日本社会を豊かに運営してくためには必要だと思うがそうなれない人をどうするか、ということにフォーカスしていくべき。

というもの。
特に3については、根本的に自分とは発想が違うなと思ってしまった。僕は目標として様々に活躍できる人材育成を目指すのは当然でそんな人は一部しかいないわけだから目標を落とせ(言い方が強引かもしれないけどこの目標を変えるということは妥協の産物であるように感じる)はおかしいなと思う。
目指した結果なれなかったのは仕方ないけど、最初から下を目指すのはダメ。それはあの「2位じゃダメなんですか?」と同じ発想じゃないの?と思った。
1位を目指した結果、2位でしたなら話わかるからまずはみんな高みを目指すように持っていくべきだと思う。
また、もう一つ義務教育は税金を使って行われる以上、公共事業であり社会投資であると思っている。だから少なくとも「この社会(社会の単位はさておいて)を総体的に前進、発展させるための人材を育成することを目的とする」のは半ば当然かと思うのです。
そうでない教育を実現したければ、それを実施することにより社会がどう豊かになるかを証明する必要があると思うのです。お金を使う、というのはそういうことだと思います。

この思想は残酷に映るかもしれないけど、民間企業ってそんな理屈で動いているんですよ。もちろん、政府や自治体と営利企業は目指すところが全然違うでしょ?というおっしゃりようはあるかと思いますが、教育は確かに公的側面が強いけど我々に近すぎて自分の話題として語りやすいから、どうしても自分の常識を当てはめるのですよね。
でもメンツ的に僕の立場であれば、この発想で意見したほうがよかったんだろうなと。

面白いアイディアだと思ったのは、バウチャー制。ごくファンダメンタルなもの以外はバウチャーを配布、自分のすきな講義を受けるってもの。これは大学みたいですね。
これを義務教育の段階で導入するのは問題が残るのかも。

wrap-upではまた@showgoさんによる講演があったけど現職教員に「e-Learningは死んだ」と宣言されたのは、割と衝撃だった。

研究室ではみんないろいろ考えてやっていたんだけどなあ。やっぱりそれを現場に導入するのは難しいんですね。研究では結構面白いことやってるし、定量的に評価もしているのでそれはそれで尊重すべきだから、実践の場と研究をつなぐ役割の人が求められているのでしょう。
そうすれば、教育工学がその役割や意義を十分理解してもらい、意義のあるものになるのでしょう。そういうところに予算をつけていただきたいものですね。

割と盛りだくさんでなんかもっと色々書こうと思ったけどこのへんでやめよう。つかれた。
あと懇親会でみんなお酒とカレーライスを一緒に食べてたことに最も年齢差を感じました笑

また次回も参加したいと思います。

一物多価問題について

この間も話になった標記の件、最近なぜか意識することが多いので、この辺今の考えを整理しておこうかなと思います。

【◯】
・成功すれば、お金を出してくれる人からはいっぱいもらえる
ものの価値は人によって異なるはず、あるものが万人に同じ価値で提供されることのほうが不自然
・需給のバランスで価格が決定するというプロセス自体がすでに存在していない
価格決定プロセスは市場の成熟度や原価積み上げなど、需要に左右されるものではないのでは?

【×】
・タリフサービスは、営業費用を極小化できる。そのため競争力のある価格が提示できる
(見積もりプロセスは人件費などかかる)
・価格情報は、拘束しようと思っても簡単に漏洩する情報であるし、モラル以外でそれを縛ることはできない。
自分が取得したより安価で入手した人がいると、価格自体にプレミアムを最も感じている顧客に対しては
次回以降値下げの圧力がかかるし、それを回避することも難しい

2010年8月13日金曜日

文科系トークラジオLifeを聞いている

最近ようやくLifeのPodcastを聞く気になり、順調に消化している。
あのpodcastは内容が内容なだけに、なんとなくとか流しで聞いて面白い類いの
ものじゃない。もっと賢い人はながら聴きをしてもついていけるのかもしれないけど
僕はそれに意識のウェイトをかなり置かないとついていけない。

ただ、基本的に僕は社会学っていうのがあまり好きじゃないんだよなあ。
あのメタ認知的に社会を切ってやろう、っていうのが半ば傲慢にも見える訳なんですが
でも、社会学の面白いところは誰もが議論に参加できることだと思う。
市井のサラリーマンなんかは居酒屋で政治経済を ばっさりいってたり
例えばLifeでネタになることなども、誰もが一家言もっていそうなネタばかり。

社会学者が、そういうネタについてどのような考え方を持っているか、Lifeを
聞きながら同意したり、それは違うと思ったり、すこしアカデミズムに戻ったような
気がして、それが面白くて、今日も聞いてしまう。
今度の放送はリアルに追っかけようかな〜

2010年8月8日日曜日

いわゆる「だだ漏れ」について

自分がインターネットを初めて使ったのはたしか97年
so-netとU.S. Roboticsの28.8kモデム+Windows95で接続していた。
その時はとったプロバイダのメールアドレスで割と掲示板みたいなものに
書き込んだりしてたわけだけど、しばらくたつと「インターネット、危険」みたいな
ネガティブキャンペーン(かどうかは議論の余地ありと思う)のため個人情報をインターネット
上の載せるなどあり得ないといった常識が席巻。しかし、今日に至っては
いつしか個人属性をネット上で公開すると
いったようなことに対する抵抗感はなくなり、寧ろ発信しなくては!という
意識が当たり前になったわけで、このあたり社会はあまり変わっていないのに
ネットに接続させられている(あえて使役)人々の思想だけが変わってきたところに
すごく興味があって。

そういう意識を切り開いたのはおそらくMixiだと思ってるんだけどあれは
クローズドコミュニティで、そうあるべきだという意識が参加者の中で共有
されていたんだけど、これで教育されたユーザーがそうなったのか?
いやーそうじゃないような機がする。

自分の場合、Google Buzzに登録したらmacに登録していたログインの写真が
公開、そしてbuzz開始当時問題になってたメールアドレスや名前が全部公開された
問題にひっかかり、色々めんどくさくなったんでbuzzもtwitterも実名、写真公開
状態になっているわけだけど、こういうのはレアケースかもなあ。

昔読んだインターネットの心理学には、MUD(Multi User Dungeon)内に登録する
ユーザに、実名公開はしないけれどもそのIDなどに本人が本人である何らかの痕跡
(これは他人がわからないレベルも含めて)を残る傾向があるという言及があったけど
それがFacebookも含めて全て公開されるような時代になった今、どのような
人の意識の変遷があったのか、これは社会学に調べてもらいたいトピックのひとつです。

議論のファシリテーションについて

先日とある、議論に参加しました。一部の人は知り合いだったようですが
ほとんどの人がその時が初見、ただ集まった目的や背景は理解しているがそこに
いる人がどんな人かは全くわからない、という状態

当然テーマが主催者から与えられ、とっかかりもあったのにもかかわらず
なんとなく、議論が発散した印象をもった。
(自分がかきまわしたのだが…)
ではなぜそうなったのか?

全員が平等であれば、議論をリードするのは声の大きい人で空気読まない人
かなと思っててそれは当たっている気がした。
それは参加者の属性がわからないからなのだ。
その人のもってるバックグラウンドや専門性がわかれば、大体どの立場で
話をするのか、という暗黙の合意形成がなされるがそれがないとどうもならない。
ただ、それは必ずしも悪いことじゃなくて、そういう前提を置かないがゆえに
あまり気にせず発言できるというメリットもある。もしかしたらその人が専門
だと思っているものより、それ以外の人が専門と思っていないところの
思想や意見の方が、より重要な場合もあるわけで。
どちらが正しいか、より建設的な議論になるかは状況次第なのかな。
なんとなく、ケースバイケースでありながらも今回のようなケースに適用できる
形はあるかと思うのですが・・・

これといった結論はないけど、メモ